1855年、クルティウスの協力によって設立された長崎海軍伝習所は、海軍士官養成のための学校であった。そこでは、幕臣や雄藩の藩士を選抜し、ペルス・ライケン、 ホイセン・ファン・カッテンディーケ 、ポンペ・ファン・メーデルフォールトらのオランダ人教師によって西洋技術、航海術、蘭学をはじめとする諸学を学ばせた。海軍伝習所で学んだ著名な人物には勝海舟、榎本武揚、五代友厚などがいる。
いっぽう1855年には、米国総領事としてタウンゼント・ハリスが下田に着任している。ハリスは翌年、通訳兼書記官としてオランダ語に通じたヘンリー・ヒュースケンを雇った。ヒュースケンはアムステルダム生まれのオランダ人で、外交折衝や日本での見聞をつづった『ヒュースケン日本日記』をのこしており、幕末外交史の貴重な資料となっている。
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五稜郭1857年、箱館ではオランダの築城技術をもとに五稜郭の建造工事がはじまった。なお、この年は咸臨丸が南ホラント州のキンデルダイクで完成し、日本へ送られて長崎海軍伝習所の練習艦となった年でもあった。この船は、のちに勝海舟、福澤諭吉、ジョン万次郎らを乗せて太平洋を横断することとなる。
1858年(安政元年)、米国下田総領事のタウンゼント・ハリスは清国がアロー号事件の結果、天津条約を結んだことを利用し、日米通商修好条約の調印をはたらきかけ、老中堀田正睦は勅許を得ようとしたが失敗に終わり、代わって大老となった井伊直弼とのあいだに交渉がもたれ、無勅許のまま調印した。イギリス、フランス、ロシアとも同様の条約が結ばれ、1858年8月17日(安政5年7月10日)オランダとのあいだに日蘭通商修好条約がむすばれた。これらは総称して「安政五カ国条約」と呼ばれる。
通商条約の締結もクルティウスによるものであった。クルティウスは、長崎奉行と交渉し、踏み絵の廃止を実現するなど、開国後のオランダ最初の駐日外交官としても日蘭間の交渉役を続けている。この交渉の過程で日本人へオランダ語を教授するかたわら、自ら日本語の研究も進め、1857年には日本語の文法書「日本文法稿本」を作成、また、日本初の有線式実用長距離電信実験に成功し、電信技術を日本にもたらしている。
通商条約の締結により、日本とオランダのあいだに従来の長崎での管理貿易にかわって、長崎、箱館、神奈川(のち横浜)、兵庫(のち神戸)、新潟を開港場とする自由貿易がはじまることとなった。また、既に和親条約によって出島に対する規制は大幅に緩和されていたが、通商条約を受けてオランダ商館が正式に廃止された。国別でみると、1860年段階でオランダは日本にとってイギリス、アメリカに次いで第3の貿易相手国であったが、その比率は年を経るにしたがって減じていき、1865年にはフランスに追い越されている。
1860年桑港停泊中の伝・咸臨丸こうした状況は、適塾でオランダ語を学んだ福澤諭吉が1859年(安政6年)によって外国人居留地となった横浜の見物に出かけたが、そこではもっぱら英語が用いられており、看板の文字すら読めないことに衝撃を受けたエピソードにもあらわれている。
1860年 日米修好通商条約の批准書を交換するためアメリカ軍艦ポーハタン号は遣米使節団一行を乗せて太平洋を横断させることとなったが、ポーハタン号の万一の場合を想定して咸臨丸も同行することとなった。これには福澤も同乗しているが、ウェブスター辞書を購入して帰国し、そののちは幕府翻訳方に採用された。
このように、開国は洋学の発展を促進したが、そのいっぽうでは、開国後のインフレーションなどにより排外主義的な思想も力を得、各国と結んだ修好通商条約が無勅許のまま結ばれたところから尊王思想と結びついて尊王攘夷運動がおこった。1861年、日本をこよなく愛したヒュースケンは薩摩藩士におそわれて死亡した。
『馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵攘夷派が藩政を握り、尊王攘夷運動の牙城となったのが長州藩であった。1863年(文久3年)5月、長州藩は攘夷を決行し、関門海峡(馬関海峡)を航行するアメリカ商船を砲撃した。それに対し、その報復として翌年8月5日から7日にかけて英・蘭・仏・米四国連合艦隊17隻が下関を砲撃し、陸戦隊が砲台を占拠した。これが下関戦争である。幕府はこれに対し、賠償金300万ドル(225万両相当)の支払いなどを約束した。
「明治最良の官僚」といわれた榎本武揚蘭学を学んでこの時期に活躍した人物としては、長州の大村益次郎がいる。かれは1846年(弘化3年)に緒方洪庵の適塾で学び、その在籍中に長崎で1年間遊学して、そののち適塾の塾頭まで進んだ。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となったほか、事実上の日本陸軍の創始者であり、また靖国神社の前身である東京招魂社の創建を献策した。
幕府側の人物としては、津和野藩出身の西周がいる。かれは最後の将軍徳川慶喜の政治顧問であり、明治にはいっては啓蒙家として活躍し、貴族院議員も務めている。かれが蘭学を学んだのは1841年(天保12年)の養老館においてであり、1862年(文久2年)には幕命で津田真道、榎本武揚らとともにオランダ留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学、経済学、国際法などを学んでいる。「哲学」「藝術」「理性」「科學」「技術」など多くの哲学・科学関係のことばは西の考案した訳語として知られる。
以上のように、オランダとの長い交流は幕末の諸相に対して陰をおとしていた。箱館戦争では、オランダに留学した榎本武揚がオランダの築城術でつくった五稜郭にたてこもり、海ではもとオランダ船咸臨丸も活躍したが、ついに降伏し、戊辰戦争が終結するのである。
明治維新後の日蘭関係
デ・レーケ(船頭平河川公園)明治新政府が条約改正交渉の下準備と西洋文明の調査のために欧米諸国に派遣し、巡覧させた岩倉使節団は1871年(明治4年)から1873年(明治6年)までにおよんだが、このときオランダも訪れており、1873年、一行はハーグでヴィレム3世と謁見した。10日あまり滞在し、ロッテルダム、ライデン、アムステルダムを巡覧、諸機関・各施設を見学したのちハーグから次の訪問先、新生間もないドイツ帝国を訪れている。なお、この使節団のなかには、かつてオランダで西洋医学を学んだ長與專齋もいた。
日本が開国して明治維新をむかえた後は、国際関係の中での日蘭関係の比重は低下したものの、急速な近代化政策を進める上で、大きな力となったお雇い外国人のなかには、オランダ人も多かった。法学者で宣教師でもあるグイド・フルベッキをはじめ、特に、オランダで発達していた治水技術の分野では、多くのオランダ人技術者によって学者・技術者が育成され、また、各地の治水工事でも指導力を発揮した。著名な人物だけでも、「砂防の父」と呼ばれるヨハニス・デ・レーケ、利根運河の建設などに関与したローウェンホルスト・ムルデル、淀川修復工事などに関与したジョージ・アーノルド・エッセル、野蒜築港計画などに携わったファン・ドールンなどがいる。
1912年(明治45年)には、明治政府の悲願であった条約改正が行われ、日蘭通商航海条約が締結された。
オランダとの戦争
ジャワ島内を進撃する日本軍オランダは、第二次世界大戦中、日本に対してのみ宣戦布告した。これは、オランダ領東インド政庁が独断で宣戦布告し、当時ロンドンに亡命していた本国政府が追認したものとされる[6]。この1941年(昭和16年)12月8日の宣戦布告によって、両国は戦争状態に入った。
翌1942年(昭和17年)1月、日本軍は石油資源の獲得を主な目的として蘭印作戦と呼ばれるオランダ領東インド(蘭印、現在のインドネシア)進攻作戦を決行し、同年3月10日には蘭印連合軍の本拠ジャワ島に至ってこれを全面降伏させ、ほぼ全域を制圧した。オランダ領東インドは大東亜政略指導大綱で領有する方針が決定されていたため、3地域に分けて日本軍による軍政が施かれ、正負両側面にわたる様々な影響を与えた。終戦後、再植民地化を示唆したオランダに対して、スカルノやモハマッド・ハッタらの独立派は、1945年8月17日、インドネシアの独立を宣言して、インドネシア独立戦争に入った。
一方、1942年(昭和17年)3月の内に日本軍は、ジャワ島内で蘭印軍66,219名を含む連合軍82,618名を捕虜としたほか[7]、民間人9万人余も収容した。彼らは自分達が東インド住民を懲罰するために設けた監獄に自ら入れられるという屈辱を味わった。オランダ人兵士の一部は長崎の捕虜収容所に送られ、そこで原爆に被爆した。また、日本軍がオランダ人女性を強制連行し慰安婦にした白馬事件も起こった。終戦後、オランダは、捕虜虐待などの容疑で、多くの日本軍人をBC級戦犯として処罰した(連合国中で最も多い226人の日本人を処刑)。戦後長らく反日感情は残り、1971年(昭和46年)に昭和天皇がオランダ訪問した際には卵や魔法瓶が投げつけられ手植え苗を引き抜かれるという嫌がらせがあり、1986年(昭和56年)にはベアトリクス女王の訪日計画がオランダ国内世論の反発を受けて中止されが、その後1991年に来日した女王は、1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書では賠償問題が法的には国家間において解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会で「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」として賠償を要求した。それに対して日本政府はアジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施した。また、2007年(平成19年)にはオランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされた。2008年(平成20年)に訪日したフェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが、被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」[8]と述べた。
日蘭友好関係の復活
1951年(昭和26年)9月、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が締結され、翌1952年(昭和27年)4月に発効した。同条約にはオランダも署名しており、これにより日蘭両国の友好関係は復活した。当時、食糧難の記憶のまだ新しい日本はオランダの干拓技術の習得のため、1952年より、多くの技術者を留学させている。1954年(昭和29)には「八郎潟干拓の父」とよばれたヤンセン博士が来日している。
また、二国間条約・取極は、1953年(昭和28年)には航空協定、1956年(昭和31年)には日蘭議定書と査証取極、1970年(昭和45年)には租税条約、1981年(昭和56年)には文化協定、1996年(平成8年)には科学技術協定が、それぞれ締結されている。また、2003年(平成15年)のイラク戦争では両国共にアメリカを支持し、自衛隊イラク派遣においてはオランダ派遣軍が治安維持を担当する地域に派遣された陸上自衛隊に対して(先に活動を行っていた立場から)指導・協力を行った。戦後の日蘭関係は、前述の懸案があるものの、概ね安定的な友好を保っている。
賠償問題
オランダと日本は、1951年(昭和26年)に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)を締結した。同条約第14条により、日本はオランダに対して賠償を支払うべきではあるが、オランダは日本の存立可能な経済を維持するとの観点からすべての賠償請求権及び財産、並びに、戦争によって生じた国及び国民の請求権を放棄した[9]。
日本の捕虜であったオランダの人々に対する償いとしては、平和条約第16条に基づき、日本が国際赤十字委員会に支払った資金で一定の支払いがなされた。また、民間被抑留者については同条による支払の対象ではなかったため、平和条約の調印に先立って、1951年(昭和26年)9月7日と8日に、オランダのスティッカー外務大臣と日本の吉田茂内閣総理大臣との往復書簡(吉田・スティッカー書簡)により、以下の見解を明らかにした。すなわち、オランダ政府は平和条約第14条(b)による請求権の放棄によってオランダ国民の私的請求権が消滅することにはならない旨表明し、これに対し、日本政府は、オランダ国民の私的請求権は最早存在しなくなるものとは考えないが、平和条約の下において連合国国民は、かかる請求権につき満足を得ることはできないであろうということ、しかし日本国政府が自発的に処置することを希望するであろう連合国国民のあるタイプの私的請求権が存在することを表明した。この吉田・スティッカー書簡に基づいて、1956年(昭和31年)3月13日、「オランダ国民のある種の私的請求権に関する問題の解決に関する」日蘭議定書が結ばれ、日本側は「オランダ国民に与えた苦痛に対する同情と遺憾の意を表明するため」、1000万ドルを「見舞金」として「自発的に提供する」こととした。
こうして、日蘭間の戦後処理は、平和条約によって法的に解決済みであり、さらに日蘭議定書において、オランダ政府はいかなる請求をも日本国政府に対して提起しないことが確認された。
もっとも、オランダ国民の間には、対日個人賠償を求める気運が残った。1990年(平成2年)には、対日道義的債務基金(JES)が結成され、日本政府に対し法的責任を認めて補償するよう主張し、一人当たり約2万ドルの補償を求める運動を始めた。また、JESは慰安婦問題も取りあげ、償いに直接に責任をとるべきは日本政府であるという立場をとった。
これに対して日本政府は、女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)を通じた事業を行うこととし、基金設置直後から、日本の外務省は事業準備のための活動を始めた。この活動に関してオランダ政府は、先の戦争に係わる賠償及び財産、並びに請求権については、サンフランシスコ平和条約で解決済みであるので、日本側が直接関係者と話し合ってほしいと促した。このため、日本の外務省は、JESの関係者と直接話し合いを行った。この話し合いの中で、オランダ側から個人に対する支払いが求められた。このため、医療福祉支援を個人に対して実施すること、支出する政府資金の総額を2億5500万円とすることで合意した。
1998年(平成10年)7月15日、アジア女性基金とオランダでの事業実施のために設立された委員会(オランダ事業実施委員会、PICN)との間で覚書が交わされ、慰安婦問題に関し、先の大戦中、心身にわたり癒しがたい傷を受けた方々の生活状況の改善を支援するための事業を同委員会が実施することとなった[10]。アジア女性基金は、この覚書に基づき、日本政府からの拠出金を原資として、同委員会に対し3年間で総額2億5500万円規模(最終的な実施総額は 2億4500万円)の財政的支援を行うこととし、同委員会は79名の方に事業を実施した。この事業は、2001年(平成13年)7月14日、成功裏に終了した。
しかし、2007年(平成19年)11月20日、オランダ下院は日本政府に対し元慰安婦への謝罪や補償などを求める決議案を全会一致で可決した(オランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議)。これは、アメリカ議会で従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議案(アメリカ合衆国下院121号決議)が可決されたことが影響しているとされる。この決議に対して、日本政府は特にコメントしていない。
現在の日蘭関係
2000年(平成12年)の日蘭交流400周年記念には、両国で約700の記念行事が催されるなど、日蘭の文化交流は活発。
2005年(平成17年)の貿易額は、日本からオランダが1兆5,076億円、オランダから日本が2,439億円。同じく主要品目は、日本からオランダが事務用機器、映像機器、科学光学機器、自動車の部分品、自動車など、オランダから日本が科学光学機器、有機化合物、植物性原材料(球根等)、自動車の部品、原動機などとなっている。2004年(平成16年)の直接投資は、日本からオランダが7,764億円、オランダから日本が3,164億円で、いずれもEU加盟国中第1位となっており、日蘭の経済関係は重要さを増している。
近年の要人往来
2000年(平成12年)以降の要人往来は以下の通り。
日→蘭 蘭→日
2000年 - 天皇・皇后(5月、国賓)、川口順子環境庁長官(11月、COP6)
2001年 - 秋篠宮文仁親王・同妃紀子(5月)、川口順子環境相(6月)
2002年 - 皇太子(1月 - 2月)、秋篠宮・同妃(10月、クラウス王配殿下御葬儀)
2004年 - 石破茂防衛庁長官(1月)、秋篠宮・同妃(3月、ユリアナ前女王陛下御葬儀)
2005年 - 小泉純一郎首相(5月)
2006年 - 皇太子・同妃及び愛子内親王(8月、御旅行・御滞在)
2000年 - ウィム・コック首相、ファン・アールツェン外相(以上2月)、コルトハルス・アルテス上院議員一行(3月、参議院議長招待)、ヴィレム=アレクサンダー皇太子、ヨリツマ副首相兼経済相、ファン・アールツェン外相(以上4月)、プロンク環境相(9月)、ネーテレンボス運輸相(10月)、ブリンクホルスト農業相、イベマ外国貿易相(以上11月)
2002年 - ヘルフケンス開発協力相(1月)、プロンク環境相(5月)
2003年 - ウィレム・アレキサンダー皇太子(3月、世界水フォーラム)
2004年 - ブリンクホルスト経済相(2月)、カンプ国防相(11月)
2005年 - ボット外相(4月)、ウィレム・アレキサンダー皇太子・同妃(4月)、ブリンクホルスト副首相兼経済相(10月)
2006年 - ザルム副首相兼財務相(5月)、ホーヘルフォルスト健康保健スポーツ相(6月)、ヴァイン経済相(10月)
2007年 - ペイス運輸・公共事業・水利相(1月)、ウィレム・アレキサンダー皇太子(3月)
人物
オランダ人
ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン - 船員、後に外交顧問。初めて日本に到来したオランダ人。
ヘンドリック・ブラウエル - 第2代平戸オランダ商館長(1613年 - 1614年)、後にオランダ東インド会社総督(1632年 - 1636年)。
フランソワ・カロン - オランダ商館長。平戸から長崎への商館移設と、通交継続に努める。後に台湾長官、バタビア政務総監を歴任し、フランス東インド会社理事となる。
イサーク・ティチング - オランダ商館長。3度来日し、2度江戸参府。後に会社理事、遣清大使を歴任。吉雄耕牛らと交流があった。
ヘンドリック・ドゥーフ - オランダ商館長(1803年11月14日?1817年12月6日)。幕末に広く用いられた蘭和辞典『ドゥーフ・ハルマ』を著す。
ヤン・コック・ブロンホフ - オランダ商館長。日本初の英和辞典『諳厄利亜国語和解』を著す。
ヤン・ドンケル・クルティウス - 最後のオランダ商館長、最初の駐日外交官。日蘭和親条約、日蘭修好通商条約の締結に尽くす。
ヘルハルト・ペルス・ライケン - 海軍軍人。長崎海軍伝習所の創設期教官。
ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ - 海軍軍人、政治家。長崎海軍伝習所の第2次教官。後にオランダ海軍相、外相に就任。
ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト - 医師。カッテンディーケの推薦で医学教授として幕府に雇用され、長崎に養生所を設立。
スネル兄弟(兄ジョン・ヘンリー・スネル、弟エドワルド・スネル) - 商人。奥羽越列藩同盟に近づき、武器を売り込む。後に、アメリカ・カリフォルニア州に若松コロニーを築く。
グイド・フルベッキ - 法学者、神学者、宣教師。お雇い外国人。法律、旧約聖書の翻訳を行う。
ヨハニス・デ・レーケ - 技術者。日本各地の治水工事を指揮し、「砂防の父」とも呼ばれる。
ローウェンホルスト・ムルデル - 技術者。利根運河の建設、宇品港(広島港)の築港に関与。
ジョージ・アーノルド・エッセル - 技術者。淀川修復工事や三国港の建設に関与。版画家マウリッツ・エッシャーの父。
ファン・ドールン - 技術者。安積疏水の設計や野蒜築港計画に携わる。
バーナード・ウィンター・A・レーリンク - 裁判官。極東国際軍事裁判(東京裁判)に裁判官として派遣された、刑法と国際法の専門家。
ヨハネス・アウフスト・ハンス・ファン・ヒンケル - 地理学者。元国連大学学長、元ユトレヒト大学学長。2007年秋に旭日大綬章を受章。
アルフォンス・C・M・ハーメル - 外交官。駐日特命全権大使(2005年8月 - )
日本人
徳川家康 - 江戸幕府初代将軍。オランダから到来したヤン・ヨーステンらを厚遇した。
末次平蔵 - 貿易商、長崎代官。オランダ東インド長官ピーテル・ノイツを台湾で拘束したタイオワン事件に関与。
徳川家光 - 江戸幕府第3代将軍。鎖国体制を完成させたが、オランダとの貿易は継続した。
徳川吉宗 - 江戸幕府第8代将軍。オランダからの知識摂取を奨励。
青木昆陽 - 蘭学者、儒学者。甘藷先生。吉宗の命を受け、オランダ語を学ぶ。
野呂元丈 - 本草学者。吉宗の命を受け、オランダ語を学ぶ。日本初の西洋博物学書『阿蘭陀本草和解』を著した。
吉雄耕牛 - 蘭学医。通詞を勤める一方、オランダ商館付外科医たちから洋方医学を学び、吉雄流外科といわれる一派を興した。良沢、玄白、源内らを門下生に持つ。
平賀源内 - 本草学者、蘭学者など。油絵(蘭画)や鉱山開発など、西洋の文化、技術を紹介。
杉田玄白 - 蘭学医。『蘭学事始』を著す。
前野良沢 - 蘭学者。「蘭学の化け物」と賞賛され、号を「蘭化」とする。
大槻玄沢 - 蘭学者。玄白・良沢の弟子。
川原慶賀 - 洋風画家。シーボルトの日本調査に協力し、シーボルト事件に連座。
司馬江漢 - 蘭学者。「地球全図」を発行する。
稲村三伯 - 蘭学者。日本初の蘭和辞典『ハルマ和解』(波留麻和解)を著す。
西周 - 啓蒙思想家、教育者。オランダ・ライデン大学に留学。
津田真道 - 官僚、啓蒙学者。ライデン大学に留学。
榎本武揚 - 幕臣、政治家。ライデン大学に留学。
広田弘毅 - 外交官、政治家。第32代内閣総理大臣。外交官時代に、オランダ公使を務めた(1927年(昭和2年) - 1930年(昭和5年))。
森銑三 - 歴史学者、書誌学者。『おらんだ正月』を著す。
東郷和彦 - 外交官。駐オランダ特命全権大使を務めた。
渋谷實 - 外交官。駐オランダ特命全権大使(2007年(平成19年)9月 - )。
その他
カスパル・シャムベルゲル - ドイツ人医師。江戸参府の折、家光から直々に医学の伝授を命じられ、カスパル流外科として医師・河口良庵らに伝えられる。
出島の三学者
エンゲルベルト・ケンペル - ドイツ人医師、植物学者。『日本誌』の著者
カール・ツンベルク - スウェーデン人医師、植物学者。桂川甫周らを指導。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト - ドイツ人医師。鎖国時代に来航し、蘭学者らと交流。